絵画論
一
此処に一枚の優れた泥絵があったとしよう。泥絵も色々あるが、ここでい
うのは幕末頃、洋風を取り容れて、江戸名所とか東海道五十三次とかを泥絵
具で描き、謂わば旅の土産絵として売られた民画を指していうのである。決
して凡ての泥絵が美しいわけではないが、私はその或ものにいたく心を惹か
れる。名も無い画工の描いたものであり乍ら、一種の静かな情味の豊かな趣
きがある。洋風を充分和風にこなしている点でも注意を引く。
だが今の多くの画家達はこういう種類の絵を見くびっている。多少興味を
有つ人が出てもたかだか「面白い絵」ぐらいで止まって了う。かかる絵には
別に偉大さが無く個性の香りが乏しいというのがその判断である。なるほど
大方は貧しい画工達が糊口を凌ぐ世渡りの技であったから、何も個性の表現
等夢みた絵ではない。当時の安絵で今の所謂絵画とは目的が違い性質が違う。
それがためかかる絵は今までも亦今も軽んじられているのである。併し作者
が誰であろうと、絵の性質が何であろうと、私はそこに現された美しさを見
逃すことが出来ない。少しも外から強いることなく私の心を不思議な世界に
誘ってくれる。眺めていると私がいつか創作者にさえなっている。なぜなら
それ等の絵は限りない想像を私から引出してくれるからである。絵が創作的
だというよりも、絵が見る者に創作を許してくれる。見れば見るほど心に夢
が結ばれ、厭くことなく眺めることが出来る。かかる絵をどうして美しい絵
と呼び得ないであろうか。美しい絵とは、見る者に美を創作させる絵をいう
のではないか。私はかかる泥絵を例にとって絵画に対する私の考えを徐々に
述べたいのである。(だが読者に一言断っておく方がよいかもしれぬ。若し
も泥絵とか大津絵とか小絵馬とかの如き民画が例証として気に入らないとい
うなら、次のようなものに取り換えてもらっても差支えはない。例えば遠い
漢代の絵漆でもよく、又は例を西洋十二、三世紀頃の彩飾本から選んでもらっ
てもよい。私の所論に対しては何れも充分な仲立である。)
二
省みるとかかる泥絵は不思議である。これまで絵画として大事がられた性
質の殆ど何ものをも有ち合わせていないからである。
第一名も無い画工の作物である。謂わば職人の絵画であって、何も高い教
養からこの美が産まれているのではない。著名な画家の筆の跡なら別に不思
議もないが、誰が何処で描いたかさえ記憶する者がない。だがそれでいて絵
に美しさがある。絵とは云えぬと云い棄てる人があっても、その美しさを否
むことは出来ない。無名の画工にこれほどの美しさを掴めたということが私
に異常な興味を唆るのである。到達し得る結論は何も偉大な画家たらずとも、
よい絵画を産む道が別に用意されているという真理である。もっと突き詰め
ていえば、無名な画工の平易な絵でなくば却って出せない特別な美しさがあ
るということである。著名の画家ならかくも無造作に平凡な絵に美を盛るこ
とは寧ろむづかしかろう。平凡な画工だから却って楽々と美しさが生めると
いう逆理は、心を躍らせるではないか。職人に美しい絵画はあり得ないとい
うのは嘘である。却って職人であってこそ産み得る絵画が存在する。なぜ今
までは著名な画家ばかりがよい作を描けるのだと考えたのか。なぜそんなに
絵の世界を窮屈な一面に追い込めて了ったのか。なぜもっと別の天地にも絵
画の道を認めないのか。この是認こそ将来への大きな福音ではないか。偉大
な画家になる必要すらなく美しい作物が産めたらこの上ない幸ではないか。
このことを私は世の識者に問いたいのである。秀でた人からよい絵が産まれ
ることを祝福するなら、なぜ通常の人からよい絵が生まれることをもっと祝
福しないのか。絵画を天才ばかりの所有にするのは摂理を無視した偏見であ
る。美しい絵画は平凡とも結び合う。平凡であってこそ美しいという絵が存
在する。画家は何故画工であってはいけないのであるか。絵画と職人とは何
も矛盾しない。
三
泥絵の如き絵は明らかに非個人的な作物である。どこにも個性の香は目立
たない。誰が描いたとてほぼ同じ泥絵である。私達は何の某をそこに見るこ
とが出来ない。このことこそはかかる民画への軽蔑を酵した原因とも云える。
だがどうして非個人的な性質が絵画の自殺と看做されるのであるか。私は何
も個性の作を否もうというのではない。だが個性の香りに高いものが、唯一
の美しい絵画だと考えることに不服である。個性的な絵画では到底示されな
い美の領域がある。たとえ個性の作ではなくとも、泥絵の美しさは消え去り
はしない。その味わいは個性を超えた所から湧いてくる。私はかかる美にい
たく心を惹かれる。美しさを個性的なものに限るのは捕われた見方である。
それを又最高のものだと云い張るのも僭越である。美しさは個人的なものに
尽きはしない。それで私はこう尋ねる、なぜ今の画家達は、又批評家達は、
只個性的なものばかりを尊ぶのであるか。又なぜ個性的な道にのみ絵画を建
てようとするのであるか。なぜ非個人的な美を美と考え得ないのであるか。
泥絵の如き民画の存在は、個性的絵画への立派な反律である。個性を去る境
地にこそ絵画の一天地がありはしまいか。絵画を個人主義の許に置くのは、
それを狭隘なものに限るに等しい。美は個人を否定してはならない、だが同
時に個人に止まるものであってもならない。個人より非個人へ、これが来る
べき絵画の方向だと云えないであろうか。
ここで私は希望する。非個性的なものと無個性的なものとを混同してはな
らないことを。後者は単に稀薄な個性を意味するに過ぎなく、前者は個性に
拘わらず又限られないものをいうのである。二者同一ではない。個性的なも
のに満足しない時、どうして個性以下の無個性的なものに満足し得ようや。
四
私はもっと泥絵を解剖して考察を進めよう。その絵を非個性的だと云った
が、このことはそれで伝統的な作物だということを告げる。伝統的絵画は一
個人の作物ではなくてその背後に相当の時間があり又多数の人間がいる。謂
わば大勢が時をかけて築き上げた絵画である。個人にだけ産める絵というの
ではない。否、一人から決して出て来ない美がかかる絵には現れてくる。寧
ろ人間が匿れ、時代や環境や手法や材料が主要な役割を勤める。描くものが
誰であろうと、何処で描かれようと、伝統さえ踏んで修練すれば出来る絵で
ある。否、そうせずば出来ない絵である。一人でこんな絵を描こうとすれば
却って困惑を感じるであろう。
だが伝統に従うというが如きは、今の人々には屈辱だと考えられるかもし
れぬ。又誰が描いてもかまわぬような絵は平凡だと云い棄てるかも知れぬ。
だが平凡でいてこれだけの絵が産めるということは非凡だとも云える。誰が
描いてもこれまで描けることは不思議ではないか。このことこそ私に異常な
興味をそそるのである。なぜ自由な個人の作だけに絵画を依存させて、伝統
の世界にも美を育むことを努めないのか。自由の作だけが価値があるといく
ら主張しても、伝統の作物に美しいものが山ほどあるのを忘れてはならない。
その伝統の絵が今絵画界から消えようとしている。私はこういう傾向を絵画
界のために美のために甚だ惜しむ。なぜなら伝統が活々してくれば個人の果
たせない大きな仕事をするからである。たとえ絵画を出発せしめるものが個
人であっても、それを大成するものは伝統である。尤も伝統も枯死すれば形
式のみ残って生命が無い。だが活きた伝統は質に於いて量に於いて、個人と
は別な大きな働きをする。なぜ絵画を個人の作物に限ろうとするのか。個性
の作だけが美しいというが如きは迷夢である。伝統は自由に反すると考える
考え方に誤謬があるのである。伝統がどこまでも不自由なものなら、何もそ
こから美が生まれはしないであろう。伝統の正しい運用こそ却って個人を解
放する。勝手に碁をさすより定石に則ってさす方が却って自由な碁となるで
あろう。定石は碁を自在にする。自由と伝統が背反するかの如く思うのは間
違っている。自由は何も個人にのみ属するのでもなく、又個人的自由が最高
の自由でもない。法則への忠誠は却って人間を釈放する。私は伝統的絵画の
道がもっと深く考察されねばならぬと思う。特に絵画の将来を想いこのこと
を重く見たい。
五
問題の泥絵を更に眺め返そう。実に考え得べからざる幾多のことが現れて
いる。一般の絵画によっては不可能なことが、却ってこの種の絵を可能にす
る。空を眺めよう。殆どどの絵もどの絵も紺色のぼかしと定石がきまってい
る。も少し変化があってもよいと思えるのに、そんなことはおかまいなく似
たような色の塗り方をする。建物を見るとしよう。それが大名屋敷であろう
と商家の庫であろうと、一列に同じような形式で片付けて了う。只輪郭だけ
が変わるに過ぎない。建物の色は黒と白とで足りる。たまにはその間に赤や
黄をさしこむ。石垣だって松の木だって水だって、それが江戸にあろうが長
崎にあろうが大した差別はない。人間の描きぶりだって千篇一律とも云える。
形でも色でも描きぶりでも沢山の持ち合わせはない。それを只時に応じ物に
順じて濃淡、大小、高低、遠近に伸縮さすに過ぎない。謂わば一定の型の絵
である。驚くほど画一的なやり方である。何も方式を基にして描いて了う。
技法として見ればこれほど呑気な絵も少ないのである。これでは絵画の自殺
であると云われるであろう。だがそんなでいて妙に美しいのである。寧ろ一
歩進めてそれだから美しいのだとまで云いたいのである。混雑な手法を経た
ら、よもやこんな美は生まれて来ないであろう。してみると近代の絵画論が
余りに狭過ぎることが分かる。少なくとも新たな立場から修正が必要である。
どう同じように描いても、僅かばかりの手法だけでも美しくなるような道を、
こんな絵から教わるではないか。このことは今までの絵画の標準を覆すだけ
の不思議があろう。一天地が別にあることが分かる。
六
近代の絵画を見ると独自な個性の所産であるから、何もかも一人で描くの
は当然である。その人独りでなくば出来ない作であってこそ個性の絵画であ
る。秀でた絵であればあるほど他人を中に交えない。彼自身の独創となって
こそ誇りがある。創作というからには畢竟個人的である。絵画が個性の絵画
となってから時は既に長い。絵画はこの立場から描かれ、この見方から見ら
れ又批判せられた。近代絵画史は個人画家史である。
だがこういう見方はもう古くはないか。当然古くなってよくはないか。私
は何も個性の偉大な価値を否もうというのではない。又それが成した史的意
義に盲目なのではない。だが時間は推移する。かかる個人の仕事にだけ絵画
の世界を求めることは、もはや不満足である。一人で描くことに意義がある
なら、どうして皆と一緒に力を協せて描くことにも意義を見出さないのか。
なぜ一人の誇りを協力の誇りに高めることを為さないのか。美が一人を経由
するより大勢を経由することが、なぜ等閑にされているのか。悦びが個人に
在るより、大勢に在る方が、もっと高い悦びではないのか。又もっと自然な
悦びではないのか。
一つの絵を一緒に描く、こんなことは考えられないとさえ想えるであろう。
だが沢山同じものを描くような事情に転じたら、大勢が協力して仕事にかか
ることが当然になりはしまいか。一枚の美しい絵を描くより、沢山の美しい
絵を描くことは更に望ましく、一人で描ける絵より、大勢でなくば描けない
絵の方がもっと意味が深くはないか。引き合いに出した泥絵を見ると、そこ
では美しさが分業から出ている。或る者は紺で空を、又は黒で土塀を、或る
者はその上に白で線を、緑で木を、或る者は人間を、そう順序立てて、謂わ
ば組織で描いたと思える。そうして爺さんも嫁さんも婆さんも孫も、しばし
ば一緒に仕事をしたに違いない。忙しくなれば知り合いの家から手伝いが呼
ばれたことであろう。大勢で分担してかからずば早く多く又安く出来はしな
い。泥絵に限らず凡て多く描かれた絵はこのような事情のもとで生まれたの
である。描く者は個人ではなく組織である。組織は一人の仕事ではなく協力
の産物である。
若しそうなら絵画を個人の絵画だとする概念は余り狭隘すぎる。個人的な
仕事もあってよい。併し個人のみよい仕事が出来ると思うのは画家達の自惚
れである。協力が立派な仕事を生むことを絵画の領域でも証明したい。否、
協力でなくば出来ない美しさが存在する。なぜその発達を目指さないのか。
かかる美の存在は人類を更に明るくするではないか。これで絵画の世界がずっ
と拡大され解放されよう。天才だけが絵画の凡ての仲立ならこの世は不幸で
ある。個人の仕事は寧ろ一部であってこそよい。なぜなら協力の仕事の方が
もっと広く幸福を約束するからである。絵画界は個性的絵画への偏重のため、
莫大な損失を招いている。かくして組織の絵画は衰頽を来して了ったのであ
る。個人の絵画より組織の絵画へ、これが将来に於ける絵画の方向でなけれ
ばならぬ。
七
ここで私は例証をとって個人的見方だけでは如何に不都合な場合を来たす
かを説明したい。今までの絵画史を見ると、それが個人主義時代の産物であ
るため、何れの絵画をも個人の名で説こうとする。著名な天才の列伝が歴史
だとも云える。名が無い場合は、史家は如何にその作者への探索に苦心する
であろう。しばしば歴史家の仕事は Attribution の仕事たるの観がある。
何も絵画史ばかりではない。政治史でも皆それぞれに英雄の列伝と云える。
だがなぜ人類の仕事を個人の所属に帰して解釈しようとするのか。実際それ
が当然である場合もあろう。だがそれでは説明できない幾多のものがある。
例えば浮世絵史を見るとしよう。どれもこれも春信とか写楽とか北斎とか
広重とか、それ等の名を列ねて歴史を説く。だがそういう個人的な見方で充
分であるか。それ等の個人的画家が寄与したものが顕著であろうとも、浮世
絵の美は決してそれ等の人達だけで構成しているのではない。試みにそれ等
の絵師の筆になる原画を見られよ。それを木版に附したものに比べられよ。
大概の場合段違いに版画になったものの方が美しい。原画の殆ど凡ては版画
以上に美しくあることがむづかしい。私は彫師や刷師の力なくして春信も写
楽もかほどまでに美しくはないと信じる。浮世絵の美は画家と彫師と刷師と
(詳しくは紙師や絵具師等との)協力が産んだ美しさである。それは一人の
個人に帰しては解けない美である。浮世絵史は単なる個人画家史ではあり得
ない。
かくいうと個人の肉筆で初期浮世絵に美しいものがあるではないかと反問
せられるであろう。併し理由は明白である。浮世絵の肉筆で初期のものに極
めて美しいのがあるのは、それ等のものに伝統的な要素がかっているからで
ある。それは個人の絵というよりも時代の絵であり流派の絵である。その美
しさは寧ろ非個人的な所から来ている。例えば鳥居派の如きを取ろう。同じ
構図や同じ筆法が反復せられ、伝統的洗練があそこまで美を高めたのである。
彼等の美しさは主に様式の美であって、個人的の特質だけで解くことは出来
ぬ。かかる意味で初期の肉筆画と版画とは性質が近い。これに反し後代の肉
筆画は初期のそれとは性質が異う。なぜなら初期の作は非個人的であり、後
期のそれは個人的だからである。少なくとも絵画の美が個人的である時のみ
美しいという考えは成り立たない。非個人的な領域に協力の領域に、美の大
きな世界がある。絵画史は当然もう一度更に高い観点から書き改められる必
要がある。
八
だがこういう種類の絵にはもう一つ学んでよい性質がある。この領域では
美しい同じ絵が何枚も出来る。美と量とが結び合うということは素晴らしい
ことではないか。近代の著名な絵画は僅かの天才の所産であり、二度と繰り
返らない作物である。寧ろ一枚より無いということに価値が置かれている。
一つ描けば画家は又次のものへと取りかかる。ふんだんに創造力があれば断
えず前に進むことが出来る。天才の壮観はそういう点にあると云える。だが
稀有な作物ということに絵画の最上の価値がかかるというなら間違っている。
それは個人性に濃くとも社会性に薄いからである。僅かであるということに
美の尊さを置くのも一理あろうが、沢山あっても而も美しい道に出る方が一
層社会的に見てよいと考えられる。もっと進んでいえば。沢山同一のものを
描くから余計美しくなるような道が見出せたら更によいと想える。泥絵の如
き民画はかかることが可能なのだと私達に警告する。何故私達は美を「多」
に結ぶ道へと努力を献げないのか。少ないことも美の要素となり得ようが、
若し多いことが却ってその要素となり得るならどうして後者の道を一層讃美
しないのであるか。
沢山出来るような美は平凡であると云われるかも知れぬ。美しいものは沢
山は有り得ないと看做されるからである。又沢山あっては美しさが減ると考
える人があるかも知れぬ。多いものに対しては美意識が薄らぐからである。
それ故少ないからこそ尊さが出るのだと云い張られるかも知れぬ。心理的に
見るとそうとも云えるであろう。僅かより無いものほど尊重されるのは通則
である。若し美しい絵画がざらにあったら、美しい絵画は消失するとも云え
る。併し考え直すと、かかる意識の消滅こそ真の意味で理想的な状態と云え
ないであろうか。病気になると健康の幸福が意識される。だが健康であるた
め一々健康のことなど気にならない状態は、事情が更によいではないか。日
本語を話すことは吾々には平凡である。だが平凡になっているのは銘々が上
手に話せる証拠である。これに比べて外国語は吾々にとって平凡ではない。
平凡でないのはまだ自由に話せないからである。美が平凡になることは必ず
しも美が低下したことを意味しない。一々美が意識されるのは状態がまだ悪
いからとも云える。美しい絵が多いが故に、とりわけ美しいと感じなくなる
ような状態を私は讃美したい。このことが成就せずば社会は美によって高ま
らないであろう。僅かな作物のみが美しいのは社会が如何に美に欠けている
かを裏書する。私達は絵画に於いて美と多とを結ばねばならぬ。多きが故に
美しいという状態に絵画を高めねばならぬ。この理念は絵画を更に深くする。
九
ここで美と多との結合が、やがて美と廉との結合に吾々を導くことはいう
までもない。値の高いよい絵を祝福出来るなら、値の安くてよい絵をもっと
祝福してよい。高くなるような事情から絵画を解放することは吾々の将来の
任務である。高価と美とは必ずしも調和しない。これに対し廉価と美とは必
ずしも反発しない。これどころか、安いからこそ生まれる、特別な美が存在
しよう。安くなくばよい絵が出来ないような事情に高まってこそ理想に近い
ではないか。よいものは当然高くてもよいとも云えるが、併し安いものは当
然美しくてよいという考え方がもっと徹底している。値は美しさの結果とも
云えるが、安さが美しさの原因となるなら、尚祝福すべきではないか。多量
な美と軽少な経済的負担とは本質的に一致しないと誰が云い得よう。今でこ
そ社会の事情が悪いために「安かろ悪かろ」という言葉が当然でも、ゆくゆ
く「安かろ良かろ」という言葉が奇異ではなくなるようにしたいではないか。
美しい泥絵を引き合いに出したのは、これが夢でないことを明示してくれる
からである。美しければ高価に作ってもかまわぬという意識は、社会的に見
れば弱い弁解に過ぎない。美しいものは当然廉くてよいという考えの方が本
筋である。否、安いからこそ美しくなるという逆理が自然に受けとられる日
をこそ待望したいではないか。美と廉とに深い結縁があるという思想は大切
である。
十
ここで問題は当然絵画の社会性に及んでくる。第一その性質が個人的意味
の多いものから、社会的意義の豊かなものへと自から転ずるであろう。近世
の絵画は深く自己を見つめることにあった。が将来は更に進んで他人を見つ
め、協存を見つめ、公共を見つめるに至るであろう。そうしてそこに一層深
められてゆく自己を見出すであろう。だが美の社会化は当然量の問題に関わっ
てくる。それ故第二には転写し得る絵画が重要な意味を齎らすであろう。画
家達は広告画の如きものを絵画の新しい分野として無視することは出来ない。
又挿絵に於いて必ずや新たな仕事の意義を見出すであろう。かかる種類の絵
画は今までは何か従属的な仕事と思われ、独立した絵画に比べて階級的に卑
下される傾きがあった。併しかかる見方は個人主義に煩わされているのであっ
て、社会的時代が到来すれば、当然覆されるに至るであろう。西洋に於いて
あの協存の理念が最も明らかだった中世紀に於いては、絵画は殆ど凡て壁画
であるか又は挿絵であった、単独な絵画が現れ始めたのは、文芸復興期から
である。絵画の独立も一進歩ではあるが、更に進歩するために再び「公」や
「多」に交わらねばならぬ。社会性なくしては将来に於ける絵画の意義は薄
い。
かかる点からして木版、石版、銅版の如き転写に依る道は新しい意義を齎
らすであろう。又は数多く同一のものを描く民画が隆盛するに至るであろう。
版画の如きは絵画の方法として遥かに非個人的な社会的な経済的な美を結合
し易い。
更に降って私は複製版に特殊な意義を感じないわけにゆかない。かかるも
のは原画でないという意味で一笑に附せられるかも知れぬが、たしかに一役
を美の世界に果たすであろう。それが将来社会の美意識を高揚するための、
欠くべからざる仲立ちとなることに疑いはない。私達は複製版に於いて特に
その部分図の如き場合に於いて、原作以上の美をすら創作することが出来る。
これと共に壁画の如きは公な絵として再び世人の注意を喚起するに至るで
あろう。転写し得る絵画の使命は重大である。
十一
私は又も泥絵に帰ろう。そうして何がまだそこに見出せるかを吟味しよう。
私は当然かかる種類の絵が有つ実用性の問題に触れてくる。前にも書いた通
りそれは旅の土産絵として売られた実用的絵画である。その点でも今の個人
的画家の「絵のための絵」とは凡そ縁が遠い。そのためか用と結ばる絵画は
いつも下賎なものとして軽蔑せられた。丁度それは画家達から、芝居の看板
や将棋の駒や浄瑠璃本の文字が、字でないと馬鹿にされているのと同じであ
る。併しそれは捕われた見方ではないであろうか。もの自身を見れば、それ
等のものの有つ特別な美しさを見棄てるわけにはゆかない。
今までは実用というと何か卑賎なものの様に考えたが、それは一面的な感
傷的な美の見方に過ぎなくはないか。用を離れるほど美しいというが、用に
即して美しくば尚よいと云えないであろうか。却って用に即することによっ
て生まれる美がないであろうか。否、用に即せずば生まれない美があるであ
ろう。実際役に立つ絵で美しければ、役立たぬ絵で美しいより尚よいとも云
えよう。用と美とは相容れぬものだと考えるのは錯誤である。その錯誤が近
代の絵画論に多い。
今までは生活からの遊離に美を求めたが、未来は生活に即して美を求める
道に出ねばならぬ。美と生活との隔離より、その相即の方が意義が更に深い。
現実の生活をすぐ醜いものと考えるのは浪漫的な態度に過ぎない。私達は寧
ろ美を用の内に探ね、却って用と交わらずば出ない美を志す方がよい。用と
交わると清さを汚し美を潰すように思うのは間違っている。あの古代の宗教
画はその卓越した美しさを、一つには宗教的実用性から汲みとってきたので
ある。「絵のための絵」でなかったことは明白である。讃仰のために、儀式
のために、教義のために無くてはならない実用価値があったのである。古い
書物に見られる挿絵又は民画、そこに見られる淳朴な美しさは、実用と結ば
れて現れたと説いてよい。かかる意味でそれ等の絵画は工芸的な絵画である。
美の工芸性はもっと重視されねばならぬ。
近代になって実用と美とを隔離させた結果、絵画が如何に非社会的なもの
に陥って了ったことか。優れたものになるほど稀有であり高価であり、一般
の生活とは縁遠くなってきたのである。遠いほど却って秀でた証拠とさえ思
われるに至ったのである。用に交わるものが急速に悪くなった。この頃そう
考えられるのも無理はない。だが私は近代のこの傾向を美の国のために甚だ
惜しむ。何故なら美と実用との離反によって、一般の美意識が極めて低下す
るに至ったからである。今では実用に交わるものは大概は醜いではないか。
だが嘗てはそうで無かったのである。少なくとも用に美が交わり得たのであ
る。用に即して却って美が現れたのである。用に活きることが更に美を活か
したのである。それ故多いもの、当り前なもの、安いものに美が輝いたので
ある。かかる事情は美の王国の建設のために無くてはならない条件である。
絵画を実用化することは決して絵画の本質を痛めない。用と美とを結ぶこと
が、当然将来に於ける絵画の大きな眼目であってよい。用から発する美の価
値はもっと深く解されねばならぬ。かかる時にのみ美と経済とは始めて密接
な調和を得るであろう。
十二
恐らく泥絵のような絵に対する最初の非難は、そこに偉大さが何もないと
いうことであろう。今まで教えこまれた美学からすると、崇高美ということ
が第一の美である。私はそれも一つの美であることを否もうとは思わぬが、
その反面にかかる見方が平易さの美を見失ったことを許すことが出来ない。
崇高美への憧憬は英雄崇拝時代の特産物とも云える。一時代に要求される一
現象であっても、必ずしもそれが最高の美とはいえぬ。私達は何故手近な平
易な尋常なものの相にも美を見、求め、現わそうとしないのか。昔南泉禅師
が道を問われた時、「平常心是道」と答えたというが、この禅意が近代の絵
画で了得された場合があったろうか。非凡なものを愛する近代人にとっては、
尋常なものの美を見ることが極度に困難になって来たのである。それ故香り
の高い気の立った個性的なもののみが選ばれるに至ったのである。それがた
め天才ならざる画家が無数に無益に居残るに至った。
だがなぜ普通の人々にはよい絵が出来なくなるようにして了ったのか。な
ぜ彼等によい絵が出来ないときめるのか。なぜ普通の人ならでは産めない美
があるのを認めないのか。美しい絵画を天才だけの仕事にして了ったのは、
美しさが非凡さとのみ結合すると考えるからである。だが果たしてそうか。
偉大ならざる美しい泥絵は私達に好個の答案を贈る。それは平凡な普通の絵
である。だが通常の絵だからこそ出せる素晴らしい美しさがある。宗教に於
いてと同じように絵画にも亦平常道が解されてよい。平易なもの当り前なも
の普通のものに絵画を建ててよい。そこでなくば建てられない美があること
を信じてよい。而もかかる美こそ最も社会的意義が深いであらう。平易さが
美と背反すると思うのは迷誤である。平凡さこそ非凡な美の基礎だとも云え
る。この意義が将来の絵画界にとって最も重大である。
だがこのことは近代人にとって一番解りにくい真理に違いない。私は角度
を変えてこのことを更に吟味しよう。私達はいつも絵を高く壁に掲げるでは
ないか。それは非凡さを仰ぐ気持ちである。見る者はそこに何か異常なもの
を予想する。実際偉大な作物は解る人ででもないと容易に近づき難いのであ
る。解り易ければ偉くない証拠でさえある、知的教養を欠く大衆と非凡なも
のとは繋がりが薄い。だが美しさは異常なものだけにあるであろうか。あの
大衆から生まれた民謡にも限りなく美しい音楽があるではないか。民画だと
て同じ筈である。それ等のものには偉さから来ない限りない美しさがある。
これを味わうのに何も特別な知的理解の準備は要らない。もっと直接に心に
迫る。このことは私達に通常な世界から限りない美が生まれることを告げて
くれる。その存在は異常な作物への怖るべき反律であろう。想うに無銘の作
物に於いて見る者は遥かに自由の持主である。これに反し著名な作物に接し
て心構えを強いられる時、直観はしばしば自由を失う。
私達の日々には、生活と交わる親しさの美が必要である。私達は美の領域
に於いて、生活の伴侶となる平易なものを一番失っている。共々に永く暮ら
すためには当り前な静かなものほどよい。尋常なものは厭きが来ない。米や
パンが常食になるのはかかる性質があるからである。だが今の絵画界を見る
と非凡を追いすぎるせいか騒がしいものが多い。大部分が刺激的である。だ
から平易は凡庸であると思われ、更に死であると考えられるのである。それ
故力とか強さとか鋭さとか、かくして異常なもの、変態なもの、奇怪なもの、
悪魔的なもの、肉感的なもの、神経的なもの、かかる要素が極度に要求され
る。これを動の美と呼ぶかも知れぬが、かかる動は静の反面なく、動の極致
とは未だ遠い。動中に静なく、静中に動を発せずば真の動ではない。老子は
剛よりも寧ろ柔を尊んだというがその気持ちが解る。非凡なものへの執着は
道からは遠い。凡中に非凡を見出さずば真の非凡はない。泥絵の如き絵には
偉さがないと一口にいうが、偉さ等に拘わっていないのが却ってかかる絵の
強みである。なぜなら平易なものは結局一番永久だと云えるからである。そ
れ故強めて云えば、平易な美は偉大な美よりもっと非凡なのだとも云える。
従って非凡な美は平凡な美よりはもっと平凡だとも云える。吾々は尋常な美
の意義をもっと深く省みねばならない。この美は実際はいつの時代でも、一
番本質的に要るものなのを解する人が少ない。
十三
絵画に見られる静的な要素を語るとき、私は当然絵画と模様との交渉に就
いて考えないわけにゆかない。なぜなら模様は謂わば型の絵であって、型は
静的な法則を意味するからである。絵画と模様とは一般に異なるものと考え
られ、絵画は当然模様より上位にあると目されている。恐らくこの見解は絵
画の独立性に対して模様が応用性に立っているからであろう。一般に模様は
装飾の意に止まって独自の存在が無いと云われる。それも工芸と結ばれる故、
位置の低いものとすぐ解されて了う。だがかかる見解は捕われたものではな
いであろうか。寧ろ模様の意義を絵画のそれより重要視出来ないであろうか。
美しい絵画は模様化された絵画ではなかったか。描写を煮つめれば自から絵
が模様に転じはしないか。かくして絵が数個の基本的な要素から組立てられ
るに至りはしないか。又は逆に云ってかかる要素に絵が還元されはしないか。
凡ての無駄をはぶき、なくてはならぬ元素に絵が帰る時、それはもはや写実
的な絵画ではなく、装飾的模様に転じてくる。実際この世の美しい絵画は何
れも模様的だと私は云いたい。模様的要素は絵画を更に絵画にする。
私達は何故絵画と模様とを隔離せしめるのであるか。何故これを二つに分
けることによって絵画の優越を誇ろうとするのであるか。二つに峻別出来な
い美しい作物があるではないか。否、美しい作物ではそれが一体ではないで
あろうか。私は再び泥絵を省みよう。誰にでも気づかれるように、それは極
めて装飾的な絵画である。構図自身が模様化され、線の引き方や色のさし方
や、形のとり方や何れも元素的な単位から構成される。その非写実性や均斉
の愛用や、それ等のことはこの絵画をいたく模様化している。風景の写生で
あり乍ら、模様で風景を写している。一見実を伝えないようでいて而も感じ
が溢れている。模様は叙述を超えた象徴である。それを圧縮した絵画とも呼
べるであろう。絵が煮つまると自から模様になってくる。それ故模様にまで
達しない絵画は、どこか未だ無駄が残っているとも云える。そういう意味で
最上の絵画はいつも装飾性を帯びる。絵画と模様は二でなくして不二である。
一に高まる時、真の絵画があるのである。私は嚮に将来の美が多と結合すべ
きであることを述べた。この要求に対し絵画が模様に深まることは望ましい。
何故なら模様の特色はその反復性にあるからである。模様は転写に活きる。
このことこそ模様にとって非常な強みである。絵画は単数であるが模様は複
数である。それ故絵画が社会性に目覚める時、それは模様に厚い関心を抱く
に至るであろう。私は模様の性質が将来の絵画論にとって重大な意義を齎ら
すことを疑わない。
十四
私は遂に結論に達した。絵画の概念には一革命がなければならない。時代
は私達に現在の標準に止まることを許さない。絵画は今日まで純正美術とし
てその位置の優越を誇ってきたのである。併し価値はしばしば転倒する。少
なきものより多きものへ、自己に立つより協力に依る組織へ、用を去るより
生活に即するものへ、かかる転向こそ絵画にとって望ましいのである。この
ことを想うと絵画は純正より応用へと結ばるべきである。これは絵画を深め
るとも浅めはしない。絵画は今日まで美術として考えられたが、その誇りは
覆り寧ろ工芸の領域にその地歩を占めるに至るであろう。美と用と交わるも
のが工芸の世界だからである。人は工芸を常に美術の下位に置くが、将来こ
の位置には動揺が来るであろう。今までは如何にそれが美術的であるかによっ
て絵画が評価された。併し今後は如何にそれが工芸的なるかによって評価さ
れるであろう。私はこのことを何も思想的にいうのではない。私の直観は今
までの美しい絵画が、工芸的なる故美しいことを指摘してくれる。
(打ち込み人 K.TANT)
【所載:『工芸』 37,38号 昭和9年】
(出典:新装・柳宗悦選集 第8巻『物と美』春秋社 初版1972年)
(EOF)
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